『デスノート Light up the NEW world』に見る”継承”の難しさ

感想

今更ながら『デスノート Light up the NEW world』を視聴しました。

原作ファンからは『冒涜』など厳しい評価を受けている本作ですが、私としては脚本と映画を通して『継承の難しさ』というものを感じましたので、ここに書かせていただきます。

しばし、お付き合いいただければ。

舞台は名前を書いた相手が死ぬノート”デスノート”が存在する世界。10年前、デスノートを使い犯罪者を裁く”キラ”という殺人鬼がいましたが、世界的な名探偵”L”によってキラは死亡。ただ、相打ちの形で”L”の命も失われます。

“キラ”も”L”もいなくなり、”デスノート”も全て焼却され、”キラ”による一連の事件は一旦の解決を見ます。

しかし10年の時を経て、”キラ”が復活。再び犯罪者への裁きが始まります。さらにノートは世界中に散らばり、あるノートに憑いていた”死神”によると「今、人間の世界にノートは6冊ある」とのこと。かつて”キラ”の捜査をしていた日本警察は「あの惨劇がまた繰り返される…」と殺人ノートが6冊もあることにうろたえます。

が、三島(みしま)という刑事が「人間界には6冊までしかノートは存在できないはず」と言い出します。三島は”デスノート”オタクと言われるほど、過去の”キラ”事件に執着していたので、誰もが忘れていたルールに気づけたのです。

七冊目以降のノートがどうなるか”死神”に聞く三島。”死神”の答えは「7冊目以降のノートはただのノートになる」というもの。そこで三島は「今、世界にあるノートをすべて集め、誰も使えないようにすれば、ノートによる殺人は永遠に防ぐことができる」と思いつき、前述の世界的名探偵”L”の後継者 竜崎(りゅうざき)とともにノートの捜索を始めます。

ここで三島、竜崎以外にもノートを集めようとするハッカーの紫苑(しおん)が現れ、物語は”デスノート”争奪戦の様相を呈します。果たして日本警察はすべての”デスノート”を確保し、封印できるのか?

以上が本作のあらすじです。他にも過去作のキャラクターがゲスト的に登場し、それぞれの役割を果たすのですが、まとめるために大部分をカットいたしました。

では、ここから感想と本題である『継承の難しさ』について語っていきます。

引き続きお付き合いください。

気になったのは”原作との差異”

『デスノート Light up the NEW world』で一番気になったのは”原作『Death note』との差異”ですね。

ちなみに筆者は『Death note』はアニメでしか見ていないので完全に原作を理解していません。それでもいくつか気になった点があったということは原作ファンの方はより多く、気になる点があったかと思います。

さて、前置きはこれくらいにして、私が特に気になった差異を2つほど上げます

差異1:”デスノート”が万能にすぎる

“デスノート”には「名前を書いた相手が死ぬ」以外にもいくつかルールがあります。原作はそのルールの中で”キラ”がどのように完全犯罪を成し遂げるかという頭脳戦が最も面白いとこでした。

個人的には『Death note』という作品はこの”デスノート”のルールによる縛りがあったから面白い作品になったと思っています。ルールがない場合、”キラ”はとても賢いのでただただ犯罪者が蹂躙されるだけの漫画となっていたでしょう。

さて、このルール。『デスノート Light up the NEW world』では少々変更が加えられています。なんというか”デスノート”が使いやすくなっているのです。そのため、原作で”キラ”がルールにより諦めたことが滑稽に思えてしまうのです。

一例として、「”デスノート”は死の直前の行動を操れる」というものがあります。この「操れる」の程度が原作と『デスノート Light up the NEW world』では異なります。

原作では「死ぬ本人がしても不自然ではない範囲で行動を操れる」ということを”キラ”が実証しています。知らない人物の本名を言ったり、知識がないはずのことを宣言したりすることは不可能なのです。”キラ”はこの「死の前の行動を操る」で犯罪者への裁きを妨害する”L”の正体を探ろうとしましたが、”L”は誰も正体を知らないため失敗に終わるというエピソードがあり、かなり重要なルールです。

このルールが『デスノート Light up the NEW world』では少し拡大解釈されている気がしました。

例えば”キラ”に賛同し復活を喜ぶ人が突然「キラは間違っている」と宣言し死亡するというシーンがあります。これはあまりにも不自然な行動なので「これが通るなら原作の”キラ”も同じことが出来たのでは? 」と思ってしまいます。

もう一つ例をあげると、ハッカーの紫苑が他のノートを持っている人の名前をノートに書き、「死の前に自分にノートを渡すように」と行動を操るシーンもありますが、これもちょっと不自然です。見知らぬ人に大切なものを渡す人はあまりいないかなと思います。

他のルールにも拡大解釈がなされており、原作で”キラ”がもっていた苦悩がほぼ解消されてしまうので、原作の”キラ”がしていたことが馬鹿らしく思えてしまいます。

とはいえ、原作は漫画、『デスノート Light up the NEW world』は映画というメディアの違いもあるので、演出的にルールの拡大解釈は仕方ないかなとも思います。人の行動をある程度不自然に操れないと、映像的な見どころは作れないという理由もあったのでしょう。それでも疑問に思う原作ファンがいたでしょう。

個人としては「漫画の実写化という作品の性質上仕方ない」が結論です。

差異2:”死神”が人間に協力的

差異1とほぼ同じことです。

ノートには”死神”というものが憑いています。この”死神”はノートを触ったものにしか見えず、”死神”側からは人間に干渉可能、人間側からは”死神”に干渉不可能という存在です。

“死神”は自分のノートをもっており、そのうえ人の名前と寿命がわかる”目”を持っています。『Death note』において死神はノートに次ぐ、万能の存在として描かれています。

そんな”死神”ですが、個体差はあれど人間に非協力的です。あまりにも万能な存在なので、死神が”キラ”に協力的だった場合、”L”は一瞬で”死神”に殺され”キラ”の勝ち、となってしまうためこの設定も作品を面白くする要素として働いています。

ですが『デスノート Light up the NEW world』の死神はノートの持ち主の言うことを聞いて殺戮に協力します。これも原作”キラ”が馬鹿らしく見えてしまう効果を生んでいますし、なにより作品全体のいざこざが「死神に任せればもっと早く解決するのでは? 」と思えてしまうので、作品の魅力も半減させている気がします。

万能の存在”死神”が人間に協力的なことでちょっとだけ作品の魅力が下がっているのが残念です。

本編・脚本両方に現れる『継承』の難しさ

差異を紹介したところで本題です。

『デスノート Light up the NEW world』は継承の難しさを表している作品だと思います。それも作品内に限らず脚本でも同じ問題を提起していると筆者は思っています。

まず、作品で描かれる継承の難しさについて。

『デスノート Light up the NEW world』は”キラ”と”L”という二人のカリスマが死んだ後の世界であると述べました。

『デスノート Light up the NEW world』には二人の意思を受け継ごうとする者がいるのですが、どちらもうまく意思を受け継げていないというのが私の感想です。

“キラ”側の後継者は「犯罪者を裁く」という”キラ”の行動のみを模倣しており、”キラ”が裁かないであろう改心した犯罪者を裁いたり、ノートに名前を書き死が確定した人物に自分から会いに行き、ノートに書き込んだことを見せて絶望させたりと、自己顕示欲が強い印象です。

“キラ”の意思は「犯罪者を裁いて目立ち、崇められること」ではなく「犯罪のない世の中を創る」ことだったと私は考えているので、今回の後継者に”キラ”の意思は受け継がれていないなと感じました。

とはいえ、後継者も直接”キラ”に会ったことがないので、”キラ”の行動から意思を推測するしかなかったので仕方ないと言えます。

“L”の方も似たようなもので、”L”の意思は「事件を解決すること」のみだと私は思っていますが、”L”の後継者は「自分が事件を解決すること」を目的に動いているように移りました。自分から現場にでていったり、不必要に捜査員を煽ったりと、自己主張が強い印象です。

まとめると、”キラ”、”L”双方の後継者が意思を完全に受け継いだのではなく、自分の解釈を入れて意思を受け継いだと自称しているに過ぎない状況です。

これが脚本にも現れているかなと思っております。

先ほども言いましたが、漫画を実写映画にするために改変は必須です。癪の都合があるのでストーリーを改変し、役者さんの都合で複数のキャラクターの役割を一人のキャラクターにまとめる。これ自体はメディアミックスの特性上、避けては通れない部分です。

ただ『デスノート Light up the NEW world』は不要かつ物語の魅力を損なう改変がされていたり、そもそも『Death note』という作品全体のコンセプトとはややずれたラストシーンなど、うまく原作者の意図が組めていないと感じる部分がありました。

 

私は『Death note』系列の作品は、『デスノート Light up the NEW world』を除き一貫して「正義の勝利」を描いていると思っています。『デスノート Light up the NEW world』だけは視聴者に判断を委ねる形で幕を閉じるので、ちょっと違うなと思いました。

映画を制作した方と原作者の意図があっていないというか、うまく継承できていない感じがしました。

では、どうすればよかったのか?

いいっぱなしでは失礼かと思うので素人なりの意見をここに。

まず前提とし『デスノート Light up the NEW world』は実写映画の続編としては面白いです。原作と比べてしまうから、差異が気になるだけで映画としては良い作品なのです。

そのうえで原作のコンセプトと私が考える「正義の勝利」を入れるとするならば、単純に日本警察とハッカー紫苑の対立を主軸にして物語を展開すれば「正義の勝利」で幕と閉じられたかと思います。

『デスノート Light up the NEW world』は「頭脳戦」を一番のコンセプトに持ってきているので、複雑な脚本になっています。原作や他の実写映画は正義役・悪役双方の正体がわかっている状態で二人の対立構造を軸に話が進みます。『Death note』がヒットした理由の一つは「誰でも理解しやすい単純な対立構造の中で頭脳戦を描いた」ことがあると思うので、「頭脳戦」の比率を下げて「正義と悪の対立」という使い古されたテンプレートで作ればよかったかと思います。

まぁ、おそらく「今どきこんな脚本じゃ見に来た人は満足しないし、批評家からも『よくある勧善懲悪もの』と評価される」とか言われてボツになるでしょうが。

まとめると『デスノート Light up the NEW world』は正義と悪の対立構造を主軸にすればよりわかりやすい映画になったかと思います。

これにてこの記事は終了です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。ぜひ、感想をコメント欄にお願いいたします。

タイトルとURLをコピーしました